テーブルの染みに我、思う・・・
2011.06.15
様々なことがありすぎて、なんだか毎日、ただただ時間に追われて過ごしている。
時間といえば、おなじみの「大きな古時計」という歌が子供の頃から大好きだった。生まれた朝に買ってきて人生が終わるまでをともにするなんて、もちろん物語だけれど、子供心にも時間の重みというか流れというか”おじいさん”の生きた一時代が感じられるようで、大きな振り子時計が据えられ、たぶん反対側には暖炉があってボトルシップなんか置いてあるに違いない”おじいさんのリビング”を、自分なりにだけど想像して楽しんだりもした。
省みて、自分の家や部屋にそんな“のっぽの古時計”に匹敵する、自分をずっと覚えていてくれる何かがあるだろうか。実家には、例えば台所の40年モノの電気釜や天火が、母の炊き込みご飯や手作りクッキーの匂いの記憶とともに変わらずそこにまだ現役!だったり、何故そんなものが我が家にあったのかがついぞ謎な、シールを貼って怒られた某海外ブランドのシステムキャビネットだとか、それなりに思い出と歴史を刻んだものが未だに、多数残っていることに思い当たる。まあ、ちょっと違うような気もするんだけれどね・・・。それは、やっぱり私の両親の”のっぽの古時計”なのだろうから。
だから最近、家族が増えて引っ越したとき、そんな家族の一時代を記憶するなにかがウチにも出来たらと、いつまでも変わらず使えるものが欲しいと思った。家具をはじめとするインテリアエレメントもこだわって選びたかったのだけど、長持ちしそうな本物は、なんでもお高くて手が出せないんだもん(笑)。
”おじいさん”じゃないけれど、家中にふたつしかない時計はいずれも電池で動くありきたりのもので、およそ一生をともにするという訳にもいかないし、結局、そのくらい長く使えそうなものは大奮発した無垢のダイニングセットくらい。もっともそれすら、キズや汚れが付くのがまだもったいなくて、厚手のビニールのテーブルカバーをのせてしまったあたり、我ながらダメダメで悟りが足りないのだ。
キズのひとつひとつも家族の歴史、愛おしく思えばそれもまた、とは思うのだが、思うのだけれど、子供って本当に、本当に、容赦ないんだもの・・・。いつか吹っ切れて、いよいよ惜し気なく使い倒せるようになったとき初めて、我が家の”のっぽの古時計”になるのかなと、今は思っている。
ああ、それにしてももう既に一ヶ所油汚れがしみついて落とせないのが気になる・・・。いやはや、やっぱりまだまだ、だな。
青森・弘前ブロック 小野